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大阪・日本橋でんでんタウン 第7回ストリートフェスタを中止 東日本巨大地震の影響で [日本橋でんでんタウン]

◆大阪・日本橋でんでんタウンの日本橋ストリートフェスタ実行委員会(委員長・平松邦夫大阪市長)は、2011年3月14日、同21日に予定していた「第7回日本橋ストリートフェスタ」の中止を決めた。
 3月11日に発生した東北関東大震災の被災地へ配慮してのこと。
 来年は開催したいとしている。

 また、でんでんタウン協栄会(会長・土井栄次上新電機社長)は、3月14日に開催を予定していた定時総会も中している。
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大阪・日本橋を見続けてきた東洋一の百貨店建築をレポート 高島屋東別館 大阪大空襲で日本橋の人たちの避難場所に [日本橋でんでんタウン]

◆日本橋でんでんタウンのランドマークのひとつでもある高島屋東別館(大阪市浪速区日本橋3丁目)は、昭和初期の外観を残す東洋一の百貨店建築と言われている。電気街が誕生する以前、まだ東京・神田と並び称されるぐらいの古書店街であった1937(昭和12)年に、その建物は完成している。当時の所有者は松坂屋大阪店であったが、戦後、66年に閉店してからは高島屋が使用している。太平洋戦争中には屋上に高射砲が設置され、来襲する米軍機に応戦している。「松坂屋50年史」によると、45(昭和20)年3月21日の大阪大空襲の際、建物の地下には、家屋を焼失した近隣の避難者約1000人を収容したともいう。当然に建物も発火したが、当直者たちの尽力によって消火され、歴史的建物は焼失を免れ、現在に残ることになった。

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ガレリアと呼ばれるアーケード空間
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カフェがあった中2階部分


 難波方面からのでんでんタウンへの入り口に位置する高島屋東別館は、鉄骨鉄筋コンクリート造7階建て。3期に分けて建てられた建物が、37年に統合されて現在の延べ床面積4万3600平方メートルという大百貨店が誕生した。

 もともとは23(大正12)年に大阪に進出した松坂屋の2代目の店舗として建てられたものだ。
 記者は今回のレポートに際して、6月5日、建築物を通して地域の歴史、文化を読み解き、都市観光の新しい資源の発掘につなげようというオープンアーキテクチャー実行委員会が主催する見学会に参加してきた。

あふれるパリ・スタイル装飾

 昭和初期、堺筋は北浜の三越、備後町の白木屋、長堀橋の高島屋、そして日本橋の松坂屋といった具合に百貨店通りであった。

 現在の高島屋東別館には、建物の内外に旧松坂屋大阪店当時の装飾デザインを見ることができる。建築はルネサンス様式で、外観はテラコッタ彫刻で飾られ、建物内は壁面や階段などにふんだんに大理石が使われている。

 その多くの部分は20世紀初頭のパリ・スタイルとも言われる装飾が見られる。かつて中2階にあったカフェ部分には、アイロンワークや幾何学的なモチーフであるアールデコなどのデザインが施されていた。これはエンパイヤステートビルなどにも採用されたものと同一だという。

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豪華なエレベーター周り

 堺筋に面した建物前面に配してあるショーウインドウは全長約70mもあり、歩道から店舗まではガレリアと呼ばれるアーケード空間ができている。日本の商業店舗では珍しいものだという。
 今は建物1階にはブライダルセンターやカフェが入居しているが、館内に1歩足を踏み入れると、建物の重厚さを感じることができる。

 空調の吹き出し口に取り付けられた蓋には「当時は空調自体が最先端技術だった」(高島屋)ことから、美しい装飾が施されている。同様にエレベーター部分にも、高価な大理石をふんだんに使うなど、随所に凝った装飾が見られる。

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屋上プール跡

 エレベーターの昇降を示すのに、上り、下りのランプ表示があったり、今では見ることができないものもある。
 屋上には、大阪で初めて登場したというプールが設けられていた。「松坂屋50年史」には、家族連れで賑わっている昭和10年夏の写真を見ることができる。屋上は「子どもたちの楽園屋上松坂パーク」として賑わったのだ。
 当時はまだ、建物周辺は瓦屋根の低層階の建物ばかりで、屋上からは大阪市内を一望できたという。
 屋上にあった高射砲の跡は残っておらず、担当者も「どこにあったか場所を特定することはできない」と話していた。また、米軍機から機銃掃射を受けた際にできた弾痕も、修復されて見ることはてぎなかった。

大阪市地下鉄堺筋線誕生秘話

 高島屋東別館は、難波からなんさん通りを経て日本橋への入り口部分に当たる場所に建っている。1階にテナントが入り、3階には高島屋史料館があるものの、その多くをオフィスとして使用しているため、今の建物に集客力は乏しい。
 しかし、歴史に「もし」があるとすれば、今、日本橋でんでんタウンの発展に今以上に貢献していたかもしれない、といった秘話も存在する。

 それは地下2階にある地下鉄堺筋線の駅建設を想定して、ホームと店舗を直結するアーケードだ。
 壁の向こうからは地下鉄電車が走る音が聞こえてくるし、地下2階の壁と地下鉄トンネルまでの間には、建築物が存在しており「今も大阪市に使用料を支払っている」(高島屋)という。

 大大阪時代と言われた昭和初期、大阪市の権威は絶大だったようである。民間会社からの働き掛けによって駅を設置することはせず、路線はもちろん「駅の建設もすべて大阪市で決定する」と強硬な姿勢で、計画は採り入れらなかった。

 その結果、駅建設は幻に終わり、地下2階のアーケードも日の目を見ることはなかった。
 同線が開業したのは大阪万博の前年の69年で、すでに松坂屋大阪店は閉店した後だった。
 しかし、もし地下2階に隣接して「日本橋3丁目」という駅が誕生していれば、今の日本橋でんでんタウンは大きく変わっていたであろう。

屋上から見たでんでんタウン.jpg
屋上から見たでんでんタウン

 南海電鉄の難波駅地下街やナンバなんなんタウンと地下で連結することも可能であったろうし、さらに日本橋でんでんタウンの地下には駐車場を建設すれば、街の集客は今以上に伸び、街の発展につながっていたであろうと考えると残念でならない。

 街の建設はやはり100年先を見通して進めるべきであり、目先に囚われがちな行政だけに任せることが、発展を大きく妨げることになる格好の事例だ。

子どもたちの憧れの場所

 ところで日本橋でんでんタウンの元日本橋筋商店街振興組合理事長で照明器具専門店、正電社会長の故伊東雅男氏が、生前、高島屋東別館の想い出を記者に語っている。

 それによると伊東氏が日本橋で商売を始めた頃、日本橋には空襲によって焼けたり強制疎開などで、建物はほとんどなかった。

 当時あったのは高島屋東別館ぐらいで、建物の大きさは今の3分の1程度で、持ち主もまだ松坂屋だった。
 「南側の壁面にはたくさんの銃痕が残っていましたが戦後4、5年のうちに修復したそうです」
 当時、大阪の街ではデパートが相次いでオープンしたという。大阪・西田辺に住んでい伊東氏は「小学5、6年の頃、松坂屋へはおばと一緒に来て、食堂でぜんざいを食べて帰るのが楽しみだった」と話していた。




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変化する日本橋でんでんタウン [日本橋でんでんタウン]

 「今年の日本橋ストリートフェスタが過去最高の人出で賑わったのを見て、街は変わったと感じざるを得なかった」

 先日、ある会合で日本橋の電器店の経営者がこのような発言をした。
 今年3月に開かれた第6回日本橋ストリートフェスタには、約20万人が集まった。会場となった日本橋でんでんタウンの堺筋は、人であふれかえっていた。

 その経営者は40年あまり商売をしてきた中で、このようなたくさんの人で混雑した日本橋は初めて目にしたと話していた。
 しかも街を埋め尽くしている多くの人は若者であり、ポップカルチャ―と言われる新しい文化の担い手たちであった。少なくとも、電器店経営者にとっては自分の店の顧客とは、一線を画していたことは明らかだった。

 従来、その経営者には街は電器店が支えているといった自負があった。どちらかというとポップカルチャ―系の人たちがたくさん集まってくるイベントの開催には異議があったようだ。

 しかし日増しに電器店が街から消え、街の顔は変わりつつある。それなのにあれだけたくさんの人たちが日本橋にやってくる姿を見て、街は生きている、その変化に合わせた街づくりをしなくてはいけないということに気づかされたようなのだ。
 街はどこも古い文化と新しい文化が共存して繁栄していくもので、日本橋も例外ではない。





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